第七回連載資料

京都国立博物館<1>

今回は京都国立博物館について話していきます。

まず、前回と同様に場所を確認してみましょう。


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現在は切符売り場が手前の両脇にある、砂色のタイルが張られた建物に変わっているのですが、当時は奥にある煉瓦の建物にありました。


京都国立博物館 片山東熊設計 正面入口 筆者撮影 環境の関係でガラスの自動ドアがとりつけられる。

横から玄関をみたところ。

ガラスの自動ドアを入ったところ。 風除室となっている。

正門の柵。


京都国立博物館 棟札(重要文化財

棟札はこちらで拡大して閲覧することができます。
http://www.k-gallery.jp/cgi-bin/list_jp.cgi?mz_synm=2000006727&&kubun=D_&display_no=6&limit_no=1&next=0

明治30(1897)年 京都日出新聞新聞記事全文。

帝國京都博物舘開舘

洛東大佛殿の南に當り廣大なる園庭を控へ巍然として聳ゆる帝國京都博物舘にては豫記の如くいよいよ本日より開舘することとなりたり今入場者の為めいさゝか略叙せんに仝舘の建築は佛國「ドリツク」式に倣ひ宮内省工匠頭の監督にして仝寮技師工学博士片山東熊氏の董工にかゝり本舘を区分して「いろは」十七室となし其坪数は九百十二坪餘とす地盤は厚さ六尺の人造石を以て製せり総費額は金十六万餘圓にして明治二十五年六月に起工し、仝二十八年十月に竣工せり
先づ鐵柵の正門より入れば庭園は左右に擴がり中央に小池あり噴水器を設くる計画なりと本舘の正面壁上には東京美術学校の考案に成る吉祥天女と毘首羯磨(びしゅかつま)とを大理石に彫刻し其下に長三洲の筆にて帝國京都博物舘の七字を書す舘に入れば其突當りが「い」の室にてここには浄瑠璃時の九品弥陀、神護寺胎蔵界曼荼羅其他多くの古仏像を陳す「い」より元にかへりて入口なる「ろ」の室には種々の彫刻物を陳し左に入りて「は」の室には美術工芸に属するもの多く高台寺蒔絵など尤物とす「に」の室も仝じく美術工芸に属し楽長二郎の製せる楽焼の獅子、東寺五重塔の雛形、並に幾種の青磁等皆稀世の名品とす「は」「に」「ほ」の室は歴史部とし笙、篳篥、太鼓等の諸楽器、能衣装、茶器、鐺、度量衡、矢の根、文房具、並に内外諸國の土中より掘出せし陶磁器等を陳列し中にも東寺の出品なる太鼓の皮は建武元年塔供養の時用ひしものにて正しく台等を組立てなば二三十尺の高さなる此舘内にも入るを得ずと「へ」の室は日清戦争の戦利品並びに甲冑、刀剣、矢鏃、鞍等を陳し、「と」の室には畏こき邊りの御帳台、御冠、御衣、聖護院宮の乗轎等あり「ち」の室は工藝部として古代織物並に漆器等多く「り」の室には陶器、七寶、硝子等を陳し中にも加藤清正の朝鮮陣に水壷に用ひ後ち齋らし歸って宇治の上林に与へしといふ大壷は色澤滑瑩にして雅致掬すべし其他外國陶器あり「ぬ」の室は工藝建築金属等の部とし大閤寄附の大鍋と伝ふるものの如き頗る珍品あり「る」の室は歴史図書の部とし明恵上人、豊公等の手書あり此処板戸を繞らし特別看覧室とす「を」の室には布田券、貿易船の免状等あり「わ」の室は書画部にて之を日本支那に分つ神品あり「か」「よ」の室は共に仏画にして朝鮮の画と覚しき釈迦説法の図、東福寺呉道士の画幅等眼を刮すべし「た」の室は宸翰、御物類、並に書画「れ」の室は仏像とし霊光陸離として人を射る合せて十七室いづれも稀世の名品宝什にして一たび舘内に入れば瞠目諦視殆ど応接に暇あらざらしむ聞く同舘の庭園は泰西庭園の地割に法とり樹木は日本流に栽植せしものにて中にも乗絲桜は千余本あり今数年を経ば花時の美観想ふべしまた紅楓も多し若し十分に栽植せば芝のみにて二千円を要すと門内左方茶店一ヶ所あり以て来舘者の休憩所にあつまた目下宮中の御喪期に當れば同舘にても御遠慮なし別に開舘式を挙げず只定時より縦覧せしむと因に記す一昨日社員の同舘に赴ぐや山高舘長は懇ごろに案内して一々説明の労をとり其他舘員諸氏も種々便宜を与へられたればここに鳴謝す

昭和36年当時、京都国立博物館本館が使用に耐えにくくなっているために新築してはどうかという報告が参議院文教委員会でされています。

参議院 - 文教委員会 - 閉1号
昭和36年12月08日より

(発言者)矢嶋三義
(前略)
次に、文化財の保存保護に関しましては、京都西本願寺飛雲閣大阪府豊中市にあります日本民家集落博物館なども視察いたしましたが、特に京都国立博物館について御報告いたしたいと思います。
 この博物館は、遠く明治二十八年に現在の陳列館が竣工し、同三十年に開館しておりますから、すでに六十五年の歳月を経ております。その間、明治三十三年に帝室博物館と改称、また、大正十三年には京都市に下賜されて恩賜京都博物館となっておりましたが、去る昭和二十七年から文化財保護委員会の所管となり、自来京都国立博物館として今日に及んでおります。ここには、博物館自体の所有にかかる国宝八点、重要文化財四十九点を含めての二千余点と、神社や寺院等からの寄託品約三千点のほか、和漢洋の書籍一万六千余冊を蔵しており、日本文化発展の跡をたどる尺度としてのきわめて重要な役割を果たしつつありますが、特に近年外国人の参観者がとみにその数を増してきたということであります。ところが、さきにも申しましたとおり、六十五年の風雪に耐えてきたこの陳列館は、すでに老朽の一語に尽き、建物全体を博物館と呼ぶにふさわしい状態に陥っていると申しましても決して過言ではありません。特にその屋根の部分は木造の脆弱さを露呈し、台風に見舞われるごとに雨漏りがはなはだしく、火災の危険もあり、また、館内の陳列戸棚のひずみも目立って、塵挨の堆積を防ぎ得ず、これらによる陳列品の汚染損壊の不安が常に館員一同の念頭から離れがたいという現状であります。さらに館内の採光は自然採光でありますために、冬季は観覧時間の短縮を免れず、冷暖房設備を欠くため、夏季冬季にはほとんど観覧者の姿を見ないということでありますし、休憩室の施設もありません。
 一方、事務室についても、全体として狭隘であるばかりでなく、応接室、会議室、講義室等をも備えていない状況であります。
 このような現状でありますから、陳列館及び事務室を含めての全面的新築の必要なことは言を待たないところでありまして、すでに昭和二十九年以来年々その予算要求が繰り返されているのでありますが、本年度初めて調査費として二百万円が計上されており、目下明年度以降において新築に要する総経費として八億七千万円を要求しているということでありました。
 思うに、京都博物館の新築は緊要不可欠の問題でありますし、その経費も決して多きに過ぎるものとは考えられません。明年度以降においては、これらの要求額が滞りなく予算に計上され、すみやかに京都博物館の面目が一新されますことを期待し、かつ、強く要望いたします。同時にまた、一万五千坪の敷地を持ちながら、職員の手不足のために荒廃しつつあるこの博物館の庭園をながめまして、建物の新築と同時に庭園の整備をはかり、人事機構をも大幅に増強する必要があることを痛感いたしました。国際オリンピックを目前に控え、文化日本の顔としての京都博物館の整備促進は急務中の急務であると信ずる次第であります。
 私どもは、かねてから文化財保護行政のあり方について再検討を加える必要があるのではないかと考えているのでありますが、この機会にその一端を申し述べてみたいと存じます。すなわち、東京、京都及び奈良の国立博物館が、現在のように文化財保護委員会の所管下にあることが、はたして博物舘の使命を遺憾なく達成することに妥当であるかどうか。国立の三つの博物館は、それぞれの特色、たとえば奈良は奈良時代を、京都は平安時代を代表しし、東京は一般的、かつ総合的な特色を発揮しているであろうか。文化財保護委員会が行なう文化財行政と社会教育局所管の博物館行政との間に不統一はないか。国宝、重要文化財等の修理に携わる宮大工、仏師等の技術者の養成を国の行政として考慮する必要があるのではないか等、これらは二、三の例示にすぎませんが、今後さらに根本的に掘り下げて、文化財保護行政全般について、深く研究し、検討する機会を持つ必要がありますことを提案いたしたいのであります。
 以上をもちまして、調査の報告を終わります。