第二十一回連載資料

今回は、石井桂(いしい・けい 1898-1983)をとりあげました。
  

石井の著書として、『建築家の歩いた道』(1954)というのがあり、タイトル通り、「建築家」という意識が垣間見えるエッセイとなっています。
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000000917220/jpn

私は東京に出よとすすめる人があっても未だ浦和を離れたいとは思わない。それは幼い頃の思い出がなつかしいばかりではない。東京生活の脅威に打挫かれたためと、東京に出ては日光と土に親しむ生活が、現在の収入では到底出来ないためであった。大正十二年の震災から今日迄東京の復興の姿を見つめてきた私には郊外ならば知らず、旧東京市域内のようにバラックが犇めき合っている所には今のままでは住む気にはなり得ない。

私が初めて東京の建築行政にタッチしたのは大正十二年4月十六日である。大正9年に施行された市街地建築物法に基づいて、建築監督官補(月給一円)警察技師(百円)の辞令を警視庁官房主事の正力松太郎氏から手渡されたのは帝劇のとなりの赤煉瓦造りの警視庁であった。(中略)
 建築課の事務官は百数名で、竹内六蔵氏(目下鹿島建設専務)が初代課長として日石ビルの二階に陣取っていた。(中略)築地警察署詰の技手として、警官と席を並べ、建築係の認許可の下審査と現場の検査とがその仕事であった。
(中略)
やがて竹内氏も去り、某課長時代のことである。石本氏のデザインに成る白木屋が新様式の百貨店として日本橋にデビューした時、方面主任として竣攻(竣工か)検査に立会ったが、時計台が設計より一尺高い。明日の落成式を控えて使用許可を嘆願するデパート側に同情した私は課長に許可意見を述べた所「何か貰ったのだろう」とひどく叱られ、カンカンに立腹して一晩の中にあの塔の頭を一尺程酸素で切らせてしまった。

ここで言及される白木屋というのは現存しないデパートです。1932年に火災で消失しています。
  
立川市営競輪場(現:立川競輪場)について
http://www.tachikawakeirin.jp/

終戦直後は国力の疲弊により、少しでも自治体の財政を助けるために、各地に競輪場が先を争って設けられた。

また、石井の没後に詳しい伝記が刊行されています。非売品であり、入手困難なのですが国会図書館で閲覧することができます。
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000002899926/jpn

請求記号 YU19-1
タイトル 石井桂と共に
責任表示 石井桂と共に編集委員会
出版地 東京
出版者 石井桂建築研究所
出版年 1991.3
形態 507p ; 29cm
入手条件・定価 非売品
団体・会議名標目 石井桂建築研究所‖イシイ ケイ ケンチク ケンキュウジョ
個人名件名 石井, 桂 (1898-1983)‖イシイ,ケイ

政治家としての石井桂

昭和37年『石井桂と共に』より

昭和37年 参議院選挙事務所 『石井桂と共に』より

昭和28年 参議院選挙のとき 『石井桂と共に』より
このような大きな幟は現在はみられませんね。ちょうど渋谷の松濤美術館で興味深い展覧会があっています。
「江戸の幟旗(のぼりばた) 庶民の願い・絵師の技」
http://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/museum/20090728.html
わたしは見に行きました。このようなコレクションがあるのかというのが驚きでしたが、視線が横に流れがちな展覧会とはちがって、下から上という目の動かし方がおもしろい。
  

朝日新聞 昭和43年6月17日 東京版 16面 「候補者を見る 参院選地方区」 
  

朝日新聞 昭和44年12月10日 東京版 16面 「意見と人がら 候補者にきく」
  

朝日新聞 昭和47年11月27日 東京版 21面 「候補者にきく」
  
石井は一貫して、都市における防災に関心をもっていることがわかります。阪神大震災でその被害の甚大さをわたしたちは経験しているように、石井は東京において木造住宅が密集していることを危惧しています。

建築家としての石井桂
石井が担当した建築をいくつか紹介します。

自由民主党本部
SRC造 地下3階、地上9階
延床面積 15,670平方メートル
工期 昭和38年6月〜昭和41年3月

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ABAB
SRC造 地下2階、地上9階
延床面積 13,766平方メートル
工期 昭和32年8月〜昭和40年3月
http://www.ababakafudado.co.jp/ueno.html
これは東京国立博物館からの帰り、西郷隆盛像を横に階段を下りていく途中で見る事が出来ます。
完成当時と外観が変わっています。

  

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花園神社
RC造 地下1階、地上2階
延床面積 3,291平方メートル
工期 昭和38年5月〜昭和40年7月

高地にあってよいストリートビューがないのですが、新宿の伊勢丹メンズ館の裏にあります。

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中野区役所庁舎
横にのびるラインの意匠は自民党本部との共通点を認めることができます。逆にいえば、有事における避難経路として機能しうるところといえるでしょう。

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ちばてつやあしたのジョー』は、巨大都市東京が強調され、東京タワーを見上げるようなアングルから始まる物語です。

あしたのジョー(1) (講談社漫画文庫)

あしたのジョー(1) (講談社漫画文庫)

  

石井は、東京タワーについて『建築のお巡りさん』(1962)で以下のように書いています。このタイトルは、建築を法的にチェックする仕事を長らくしていた石井ならではのものだと思います。
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001031565/jpn
    

建築基準法によると、建築物の許容最高の高さは三十一メートルを限度として規定している。そこで東京タワーが計画されたとき、まず三百三十メートルの高さの塔が許可出来るかどうかが一番問題になった。タワーには高さ約百メートルと二百メートルの箇所に展望台と作業台がある。従来の取扱によれば、タワーだけであれば問題でないが、展望台や作業台があれば、一般のビル建築の如く三十一メートルに制限されることになる。
市街地に一般に建設されるビルの高さの制限は三十一メートルでも仕方ないが、東京タワーのような用途の建築物までが、ビル並みに取扱われることは私には納得が行かなかった。永い間の建設省と都庁建築局との交渉によって、タワーは基準法の建築物でなく、工作物として扱うべきで、従って三十一メートルの制限は受けないことにするのが、最も妥当な取扱いであるという解釈が建設省で決定して、タワーは計画された日から二年目ぐらいで許可されることとなった。なおこの工作物は基準法による高さの絶対制限の外に斜線制限からも一応外されたことにもなった。建築基準法が改正されて、東京タワーのような建築物が許可されるようになったのは数年後である。(後略)